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	<title>Gallery "L'espoir"&#187; Essay</title>
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	<description>Toshihiko Shibano - 柴野利彦</description>
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		<title>「被災者へのレクイエム」について</title>
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		<pubDate>Mon, 08 Apr 2013 06:46:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[「被災者へのレクイエム」 柴野利彦 2011年３月11日は、永遠に忘れられない日となりそうです。この体験を通して何が最も大切なものなのか、あるいはどうでも良いものなのかが、明確に判断できるようになった気がします。 それは [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「被災者へのレクイエム」</p>
<p>柴野利彦</p>
<p>2011年３月11日は、永遠に忘れられない日となりそうです。この体験を通して何が最も大切なものなのか、あるいはどうでも良いものなのかが、明確に判断できるようになった気がします。</p>
<p>それは普段の何でもない日常生活にこそ生きている意味があるのだということを、あの東日本大震災ほど知らしめてくれたものはありません。親子、兄弟姉妹、家族、親戚、身近な人々との関係こそ大切にしていかなければならないものであることを教えてくれました。</p>
<p>まさに涙なくしては直視できない事態でした。そして被災者のみなさんの多くが仮設住宅で暮らすことをいまだに余儀なくされています。神も仏もないできごとなのに、多くの方がそれを乗り越えて前へ進もうとしているのを見るにつけ、本当に頭が下がります。どんな境遇にあろうと、前進するしか方法がないのであれば、とにかくやるきゃない、ということです。でも若い人にはまだ未来がありますが、既に年老いた人たちにとっては、現在進行形のただただ悲惨なできごとであるというしかないのでしょうか？</p>
<p>家族を失い、家を失い、職を失い、仲間を失い、どうすれば良いのでしょう？　その失意たるやありきたりの言葉では言い表せない気がします。こんな時にこそ国が全面的に手を差し伸べなければいけないと思うのに、原発関連では未だに補償問題でもめています。全国から集まった義援金ですら、なぜあれほどスムーズに配分できなかったのでしょうか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もう正確なことは忘れてしまったのですが、おそらく震災が起きてから２ヶ月後くらいだと思います。「被災者へのレクイエム」というシリーズを写真のコーナーで開始し、毎月掲載しながら全部で20回を迎えました。ひどくショックを受けたことが引き金となり、何かをしなければいられないという気持ちがシリーズを継続させた原動力となりました。どなたかに見ていただいて、少しでも気持ちを安らげていただけたらというのが私の願いです。</p>
<p>実際に被災された人たちはもとより、あの映像にリアルタイムで接した人々もまた傷ついた人々であると私は思っています。そうした人たちすべてに向けた「被災者へのレクイエム」シリーズでした。まる２年が過ぎ、いったん終了することにしました。私もまた前進しなければならないのです。いつか再びこのシリーズを再開する時が来るかもしれません。</p>
<p>シリーズで掲載した写真のほとんどが新しく撮り下ろしたものです。撮影しながら思ったことは、日々、目にしているものが、ありふれた日常が、どれほど懐かしく大事なものになり得るのか、末期の目から逆にパースペクティブに振り返ると、平凡さがいかに新鮮なものに見えることかということを切実に感じました。</p>
<p>私の中で何かが大きく変化を遂げました。私は人を驚かすような奇異なものではなく、遠くのものでもなく、声高に叫び声をあげるものでもなく、もっと身近な日常の中のありふれた光景が撮れたら、と思うようになりました。</p>
<p>大昔に起きた伝説的なできごとだったはずの悲劇が眼前で起き、それを目にしただれもが自然には叶わないという諦めを抱いたに違いありません。自然を利用させてもらっているのが人間であり、自然の一部として生きているのが私たちのはずです。それがいつの間に自然を征服しているような感覚に陥り、原発が役目を終え、高レベルの放射性廃棄物が減衰して安全になるまで10万年もの歳月を要することすら問題としないような傲慢さを持ってしまったようです。まったく後世の子孫への贈り物としては最悪のプレゼントです。</p>
<p>今が良ければ後はどうなっても構わないという人間の欲望が際限のない悪循環を生み出してしまったのでしょう。少々の不便を覚悟しても、太陽光発電や風力発電、波発電、地熱などの自然エネルギーを利用できる範囲内で生きていけるような環境作りをすることが肝腎だといえそうです。</p>
<p>「地球は沙漠という資源を持っている」（ダイヤモンド社刊）という太陽光発電の可能性について私がまとめた本が出版されたのが、15年以上も前。当時は、原発には匹敵するわけがないという理由から、「頭がおかしいんじゃないの？」といぶしがられた本です。ところが、今ではだれもが当たり前のようにそれらについて語るようになっただけでなく、世界中で現実のものとなってきていることに隔世の感を覚えます。少しは我々を取り巻く環境が良い方向に向っていると考えて良いのでしょうか？</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この４月から写真のコーナーでは、再びヨーロッパに戻ることにしました。フランスから始まり、だんだんと南下していくつもりだったのに、間にいろいろと挟まってしまい、モロッコからなかなか前に進むことができませんでした。</p>
<p>やっと再び旅へと戻ります。観光写真にならないように気をつけながら、進めていきたいと思っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>今年１月の終わりに神楽坂のパルスギャラリーにおいて開催した絵の個展では、大勢の方に来ていただきました。ありがとうございました。写真のシリーズ「被災者へのレクイエム」を絵の方で受け継ぎ、同タイトルで20点ほど描き、選んで10点を展示しました。もちろんテーマ「レゾンデートル」の絵も10点以上展示しました。</p>
<p>そのうちの１点「静かに生きる権利」が、福島第一原発に最も近い場所に再建された教会で展示されることになりました。私の意図が伝わったのかもしれません。描いてる時には、単に私全体が祈りの固まりになっているような絵だったのですが、その表現を受けとめてくれたバイオリニストの方が手に入れて、教会に寄贈されたものです。</p>
<p>祈りが少しでも伝わったということであれば、こんなに嬉しいことはありません。１歩づつ進んでいくうちに、だれかがそれを見守ってくれるというのは、望外の幸せだという他ありません。感謝です。</p>
<p>人生に傷ついているすべての方たちが、癒されますように、心からの祈りを捧げたいと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>モロッコはアフリカか？</title>
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		<pubDate>Tue, 01 Mar 2011 13:52:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[柴野利彦 「ピレネー山脈を越えると、そこはアフリカだ」という言う人がいる。もちろんこれを聞いたスペイン人は「違う」といって怒る。だいたい「フラメンコはスペインの音楽だ」と褒めたつもりで言っても、彼らは「あれは絶対にスペイ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>柴野利彦</p>
<p>「ピレネー山脈を越えると、そこはアフリカだ」という言う人がいる。もちろんこれを聞いたスペイン人は「違う」といって怒る。だいたい「フラメンコはスペインの音楽だ」と褒めたつもりで言っても、彼らは「あれは絶対にスペインの音楽ではない」と否定し、断固として譲らない。彼らに言わせれば、フラメンコはジプシーの音楽であって、スペインを代表する音楽では決してないのだ。既にそれだけで目からウロコの思いだというのに、それじゃ「何がスペインの音楽なんだ？」と聞くことができなかった残念な思い出がある。</p>
<p>スペインには２度行っているが、モロッコは1980年に初めて行った。マラケシまで行くつもりだったのだが、フェズで旅人を食い物にしている連中に絡まれそうになったためにそこで先を諦めて帰ってきた。ユーラシア大陸を一周した自負が、私の連れ合いとその母親の二人の女性を連れて行っても大丈夫だと過信させたもので、さすがにヨーロッパの安全はそこにはなく、甘かった。現在はもう少し安全になっているのかもしれないが…。</p>
<p>インテリのモロッコ人と電車のコンパーメントで一緒になった時にいろいろな話しをしたのだが、彼らはいちように「モロッコはアフリカではない」と断言する。パリに住むモロッコ人たちも同じことを言う。それではモロッコはどこにあるのだ？　アフリカ大陸の最上部に位置し、ヨーロッパの玄関口にあたり、いわゆる黒人ではなくアラブ人が住んでいる国であることがそう言わせるのだと思われる。自分たちは未開人ではなく、文明人の仲間だと言っているようなニュアンスが含まれている。</p>
<p>日本人がかつては白人たちをくくって、なにもかもいっしょくたに欧米と表現していたことを考えれば、そういえば今ではめっきり欧米とひとくくりにすることが少なくなった……日本人にしても、やっとヨーロッパだけでも国の数だけ民族の数だけさまざまな生き様があることが分かってきたのだ、すなわちモロッコ人たちの言うことも分からないでもないのである。</p>
<p>かつては、日本人が白人女性を表現する時には、金髪、青い目、白い肌、八頭身、それらのうちの幾つかがあてはまればみんな美人といった理想を絵に描いたようなことを言ったものだが、ついここ10年くらいでそんなアホな言い方が少なくなってきた。朝日新聞の記事ですら、つい最近まではそんなバカげた表現を使って書いていた。１度でも海外で暮したことがあれば、白人といっても北欧を除けば短身、短足、胴長、黒髪、茶色の目などがとても多いことを理解するはずなのである。</p>
<p>さあて、今回はモロッコを取り上げることにしたのだが、果たしてその理由はあまりない。スペインを先にしようか、それとも地震騒ぎになっているニュージーランド（クライストチャーチは、英国人が理想を実現したような綺麗な街である）を先にしようかと迷った末に、やはりヨーロッパを少しずつ片付けようという気になったものだ。</p>
<p>カスバの迷宮があるフェズ（Fes）や近郊の木曜市場では、とても珍しい人々の姿を見ることができたので、これを紹介することにした。何百年か昔に遡った雰囲気で、私はこういうのが大好きなものだから夢中でシャッターを切ったことを覚えている。同じような気持ちは、アフガニスタンでも味わった。江戸から明治への過渡期に迷い込んだような気分になったものだ。</p>
<p>サティ作曲のミニオペラ『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』は、写真だけ掲載してまったく文章での説明を省略してしまったのだが、私の連れ合いとその所属事務所が主催したものなので、自慢話になってもと遠慮したのである。手短に説明すると、エリックサティの死後、ピアノの背後から発見された楽譜を元にしたもので、発見されてから約50年後に台本が見つかり、楽譜と歌詞、台本が一緒になって演奏されるようになったのは1980年以後となる。日本語の資料など当然あるはずもなく、英語やフランス語の資料を漁り、それを自分たちの手で翻訳するところから始め、演劇人や歌手の人たちの助けを借りながら、長期間の準備と練習を重ねて自主公演したものである。広報活動をほとんどしなかったにもかかわらず、何とかお客さんに入ってもらうことができてホッとしたという代物となった。付け加えるなら本邦初演という栄誉も担うことになった。</p>
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		<title>「増殖」について</title>
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		<pubDate>Tue, 02 Nov 2010 07:13:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[柴野利彦 「増殖」というタイトルだが、実際には「細胞分裂」とでも名付けた方がぴったりときそうなものである。今思えば、細胞分裂をしながら増え続けるというふうにも解釈できる。 もう既に最初にこのアイデアが浮かんだときの詳しい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>柴野利彦</p>
<p>「増殖」というタイトルだが、実際には「細胞分裂」とでも名付けた方がぴったりときそうなものである。今思えば、細胞分裂をしながら増え続けるというふうにも解釈できる。</p>
<p>もう既に最初にこのアイデアが浮かんだときの詳しい事情は忘れてしまった。日付を見ると、1983年が始まりなので、かれこれ30年前に遡る話になるので無理もないだろう。それでもあえて振り返ると、この頃はゲノムの持つ遺伝情報が盛んに注目され始めたときで、私も遺伝子に関する本が目につけば端から目を通して少しでも理解しようと努めたものである。たまたま、医学関係の仕事を始めた時期と重なり、第一線の研究者たちから話を聞いたりして、生命科学の最先端の状況に胸を躍らせていた。</p>
<p>最初の絵の20枚ばかりは、数年かかって少しづつ描き、イメージを膨らませながら、10枚を一つの単位にして色を変えて描いていくつもりだった。100枚くらいを目指していつか完成すればいいなと思っていたのだが、1992年にオークギャラリーという家具店で個展が開けることになり、この年に区切りをつけるために残りの30枚前後を一気に描いたような気がする。</p>
<p>随分とあやふやな記憶で心許ない限りだが、50枚を描いてすべてを展示することができたことはよく覚えている。このうちの10枚くらいが売れてしまい、その後、その部分を描き足したために制作年度が前後することになってしまった。当時は、だれが購入してくれたのかを記憶していたのだが、今となってはだれが何番を買ってくれたのか、定かではない。</p>
<p>生物が、遺伝子の中のACGＴというわずか４文字の暗号の３文字を使って20種類のアミノサンを指定し、そこからタンパク質が作られるという生命の神秘に触れることが面白く感じられた頃の制作である。BOXシリーズで、エクソンとイントロンという副題を付けたのも、遺伝子の振る舞いに興味をもっていたこの頃のことである。</p>
<p>人は個性の発露といったことで悩むようにできているが、生物学的にみれば後世に優れた子孫を残すことが最大の使命であり、そのつながりで考えれば個人など一片のパズルのピースに過ぎない。成功だとか不成功だとか、肩書きだとか地位だとか、金持ちだとか貧乏だとか、まるで無意味な欲望が我々を悩ませるようにできているけど、どうも煩悩の中にしか生命というものは存在しえないものなのかもしれない。</p>
<p>以前、「なぜセザンヌなのか？」のところでピカソはセザンヌの苦しみを理解していたのではないか？　と書いたが、朝日新聞の文化欄で、仏文学者の海老坂武が面白いことを書いていたので、紹介しておきたい。</p>
<p>おそらく、私たちがピカソの城館を訪れて入れなかった時期と同じ頃らしいのだが、「ピカソ・セザンヌ展」が開催され、その城館が初めて公開されて内部を見てきたことに触れている。</p>
<p>やはり私が推測したように、ピカソはサント・ヴィクトワール山がよく見えるシャトーを手に入れたことがよほど嬉しかったらしい。セザンヌを本当に尊敬していたのだ。</p>
<p>ピカソの寝室を描写した海老坂の文章を引用しよう。</p>
<p>「何もない。広大な空間に、装飾らしきものは何一つない。壁際にダブルベッドが一つ。傍らに小卓と旧式の受話器、天井からは裸電球。それだけだ。」</p>
<p>食堂にも触れている。</p>
<p>「田舎風の木製の長テーブルと椅子、簡素そのものだ。そして３階に上がって目にしたのが、このがらんどうの空間。」</p>
<p>この文章は、私が抱いていた疑問をすべて氷解してくれたのだった。あれだけ派手にやっていたピカソの最晩年は、セザンヌの境地に一歩でも近づくことだけが願いだったのかもしれない。それでこそ絵画や美術における革命児のピカソだと思って納得したのである。エクサン ・プロバンスの旅は、ピカソとセザンヌの関係を紐解くうえでも貴重な体験だったといえる。</p>
<p>私も改めてセザンヌの精神に一歩でも近づけたらと願って止まない。</p>
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		<title>親しみのアイルランドへの旅</title>
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		<pubDate>Tue, 01 Jun 2010 13:07:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[柴野利彦 もうとりたてて海外に行きたいなんて思わなくなってから久しいのだが、フランスの友人たちの「今度はおまえたちがこっちに来る番だ」という誘いもあって、仕事も暇だったし、介護をする連れ合いの両親も元気だったし、それなら [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>柴野利彦</h3>
<p>もうとりたてて海外に行きたいなんて思わなくなってから久しいのだが、フランスの友人たちの「今度はおまえたちがこっちに来る番だ」という誘いもあって、仕事も暇だったし、介護をする連れ合いの両親も元気だったし、それならいっそのこと出かけようかとばかりに借金をして行ってきたのが昨年の10月のことである。どうせならフランスだけでなく、もう一つ別の国にも足を延ばしてみようと思いたった。</p>
<p>アイルランドは、遥か昔から行きたいと思っていた国である。アイルランドの取材を頼まれたこともあるのだが、国内の仕事がどうしても片付かなくて、泣く泣く断ったことがあった。あの頃は次から次へと仕事が入ってきた時代で、常に５つも６つもがダンゴ状態に重なっていて、今となってはまるで夢のような話だ。</p>
<p>なぜアイルランドに行きたいと長い間思っていたのかというと、伝統的なアイリッシュ音楽がとても好きだからである。いつ頃からそうなったのかは良く覚えていないが、20代の始めにはもう好きになっていたような気がする。なぜなのか、人の気分を和らげ癒す効果があるのではないかと、私は推測している。</p>
<p>日本でも良く知られている『蛍の光』だが、むしろそれがアイルランド民謡だということを知らない人の方が多いかもしれない。『叱られて』と同じ五音階がもの悲しさを醸し出しているのだろう。日本独特の音階とアイルランドの音楽が同じだというのも、親しみを感じた理由かもしれない。私たちが普段、何気なく口ずさむ『ダニー・ボーイ』や『庭の千草』もアイルランド民謡であり、いつの間にかかなりの割合で脳内に浸透していることを実感する。</p>
<p>またローマ時代にヨーロッパに分散していたケルトについても某科学雑誌に書いたことがあり、そのために勉強したのだが、シーザーの『ガリア戦記』は、そのケルト退治の話であることをその時知った。ローマが世界の中心だった時代には、アルプス以北はすべて野蛮の未開地であった。そこ（ガリア）に住んでいたケルト人たちは、アメリカインディアンのように部族同士が散らばって、お互いに同じ民族だと思うこともなく敵味方に別れて戦闘を繰り返していたものだから、簡単にやられてしまった。</p>
<p>彼らはゲルマン民族にも追われ、ラテン民族にも追われ、逃げて残った場所が現在のノルマンディー地方とスコットランド、それにアイルランドだというわけである。文字を持たなかったために詳しい歴史が残っていないのがケルトであり、未だに謎の多い民族でもある。</p>
<p>アイルランドの歴史は悲劇そのものといってもいい。世界中を探しても、あまりないほどに徹底的に侵略者たちに痛めつけられている。だから音楽も清澄なたたずまいに悲しみを浮かべているような感じがある。エンヤもシニード・オコナーもアイリッシュである。U２もそう。</p>
<p>バイキングやノルマン人に侵略され支配され、さらにお隣のイングランドには植民地として数百年も統治され、自分たちが作ったジャガイモすらイギリスに持って行かれ、餓死者が200万人以上出たという。プロテスタントにも侵略され、アメリカへの移民はやはり200万人、その子孫が今では4000万人になるというのだからアメリカを建国した礎になったのがアイリッシュだと思えてしまう。自らの国があまりに苛酷だったために、脱出するしか生き延びる術がなかったとしたら、その子孫たちが弱者たちに同情する気質を備えていたとしても、あまりに当然なのかもしれない。</p>
<p>西部劇の元祖となったジョン・フォード監督もアイリッシュである。だから西部劇といえばバイオリン（フィドル）が奏でられ、炎を囲んでダンスが始まる。開拓移民にアイリッシュが多かったことが、こんなことからも推測できる。</p>
<p>書きたいことは山ほどあるのだが、どうしてこれほどにもアイルランドを身近に感じられるのかが、だんだんとその謎が解けてきたのが、今回のアイルランドの旅であった。アイリッシュというと、周辺国のヨーロッパ人たちから蔑まれるような雰囲気があるのは、彼らがあまりにも苛酷な運命を背負わされてきたからに過ぎないような気がする。</p>
<p>それにしては、どこに行っても美しい国、それがアイルランドだった。そういえば、文学でいえばジェームス・ジョイス、オスカー・ワイルド、スウィフト、バーナード・ショウ、イヨネスコなどがアイリッシュである。</p>
<p>バーに入って、ギネスを飲みながら伝統的なアイリッシュ音楽に耳を傾けることをやりたくて、行ったみたいなものだったが、それ以上に地の果てのあの世の国のような印象を受けてしまった。真昼の夢を貪るような静けさと永遠の悲しみを刻みこんだ大地とが出会って、アイルランドが産まれ、そこからまた人類の深淵を覗き込むような轍に魂が挟まってしまったかのような感慨が立ち上る。</p>
<p>photoは、１年以上続いたフランスから、やっとよその国に移ることにした。いつかパリに戻ることがあるかも知れないが、数年後だと思う。chrono-cubismに関しては、日本でも沢山撮っているので、再び登場させるつもりだ。</p>
<p>今後は、アイルランド、モロッコ、イタリア、ギリシャ、スイス、トルコ、イラン、アフガニスタン、インド、タイ、バリ島へと進んでいくつもりだが、途中で日本を挟んだりするかもしれない。それはその時の気持ちの持ち方しだいだ。それではまた。</p>
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		<title>CHRONO CUBISMについて</title>
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		<pubDate>Thu, 01 Apr 2010 08:46:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[「時間のキュビズム」について 柴野利彦 写真を撮ることが私の生活の一部となるにつれて、いつのまにか普通に撮ったのでは満足することができなくなってきた。５年くらい前まではポジフィルム主体に撮っていたので、１枚、１枚、考えな [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>「時間のキュビズム」について</p>
<p>柴野利彦</p>
<p>写真を撮ることが私の生活の一部となるにつれて、いつのまにか普通に撮ったのでは満足することができなくなってきた。５年くらい前まではポジフィルム主体に撮っていたので、１枚、１枚、考えながら撮ることが当たり前であり、無駄に撮るなんてことはあり得ないことだった。</p>
<p>36枚撮りが１本、800円近く、現像も同様の料金がかかるので、ミスすればあっという間に1600円のお金をドブに捨てるのと同じことになる。それだけに光の回り方に気を遣い、ポートレートであれば表情に気を遣い、相手の気をほぐしながら柔らかい表情になったところで撮影をし、背後に無駄なものが写りこんでいないか、露光とシャッタースピードの関係は大丈夫か、といったことを当然のこととして計算しながら行っていたのである。</p>
<p>しかも少しギャランティの高い撮影になると、１枚200円のポラロイドを一体何枚くらい撮って捨てていたことか、これは個人で請け負っているカメラマンなら、多くを語らなくても同じ思いをしたに違いない。</p>
<p>ところがそうした経済的なことを考慮しなくてもよくなったのがデジカメの登場である。最初の頃こそ、画素数も少なく、よくこんなひどいカメラを売るものだと思ったものだが、年々その画質は良くなり、今では高いデジカメの解像度はフィルムを凌ぐと言われている。あっという間の進歩である。</p>
<p>それともう一つ嬉しいのは、フィルムの代わりのコンパクトフラッシュやスマートメディアといった記録媒体が飛躍的に進歩し、数センチ四方のメモリーカードで撮れる枚数が何千枚といった数なのだから、もう驚きを通り越して、唖然としてしまう。しかも記憶容量は、メガバイトからギガバイトと膨らみ、価格もどんどん安くなり、コンピュータ内に取り込んでしまえば、また同じメモリーカードが使用できるというのだから、まさに鬼に金棒、雨でも鉄砲玉でも降って来やがれといった心境となる。</p>
<p>これでやっと本題に到達できそうだ。</p>
<p>デジカメの最大のメリットは、その場で撮ったものを再確認できることと、枚数を気にしないで幾らでも撮れることである。私は４ギガバイトを４枚、１ギガバイトを４枚、常に携えているけど、何泊もする撮影でない限り、４ギガが１枚あればほとんどの場合は事足りる。</p>
<p>そうなるとこれまでひたすら貧乏たらしく節約しながら考えて撮っていた撮影も、やたらとシャッターを押すようになる。人間であれば少しでも良い表情を抑えたいと思う気持ちが働くので、枚数を１枚でも多く撮ろうとする。</p>
<p>前口上が長くて申し訳ないのだが、やっと「<span>CHRONO CUBISM</span> 時間のキュビズム」のテーマに至り着く。つまり当たり前に撮っても面白くない私としては、どうやったら少しでも私自身の興味を引く写真が撮れるのだろうか、と日夜考えているのである？　ちょっと大げさかも！</p>
<p>そこで考え出したのが、多重撮影やスロー撮影なのだが、これは写真が誕生した当時から行われていたことなので少しも新しいことではない。しかし、デジカメのその場で確認できることと何枚でも撮影できるという利点を生かすと、幾らでも挑戦できるのが嬉しいのである。</p>
<p>実は、人物のどこか一点に焦点を合わせ、周囲を流したりぼかしたりして撮るといった作業は、思ったほど簡単ではない。いや、簡単にできることではあるのだが、効率が物凄く悪いのである。100枚撮っても気に入るのは、せいぜい数枚というのが現実である。かつてフィルムでも試したことがあったのだが、デジカメほど数で挑戦できないので、そう多い枚数を撮ることはできなかった。しかも現像があがってきてからやっと、結果が確認できることであり、明かりの調整を思うようにできない恨みが残った。</p>
<p>「<span>CHRONO CUBISM</span> 時間のキュビズム」というのは、写真がこれまで１秒の何百分の１の瞬間を切り取ることばかりに精力を注いできたのに反して、もう少し長い時間を１枚の写真の中に写しこんでやろうという狙いが含まれている。顔であれば片面からだけでなく、もう一方の面も同一平面上に写しこむことができる。あるいは、動きまでも写真の中に写しこめるので、突然、写真が活き活きと呼吸を始めるのである。やっと私が写真の中に探し求めていたテーマが見つかったといえる。</p>
<p>こんなことを始めて４年くらいになる。シュネーズ一家は、30年以上のつきあいになる友達だが、顔の凸凹が日本人よりはっきりしているので、「<span>CHRONO CUBISM</span> 時間のキュビズム」の素材とするには、ちょうど良かった。この３年の間に彼らが２回、日本にやってきて、我々夫婦も１回フランスに行っているので、都合３回にわたって撮ることができた。今回はその成果の一部を披露することになったのだが、面白がって観てくれる人がいることを祈っている。</h4>
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		<title>BOXESについて</title>
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		<pubDate>Thu, 01 Apr 2010 06:56:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[柴野利彦 BOXES 1（EXON &#38; INTRON）意味と無意味 これらはすべて1999年に制作されている。その理由は、同年の９月から10月にかけて川越の「３番町ギャラリー」で個展を開いたためで、BOXシリーズ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>柴野利彦</strong></p>
<p>BOXES 1<span>（</span>EXON &amp; INTRON<span>）意味と無意味</span></p>
<p>これらはすべて<span>1999</span>年に制作されている。その理由は、同年の９月から<span>10</span>月にかけて川越の「３番町ギャラリー」で個展を開いたためで、<span>BOX</span>シリーズは、その年の収穫となったものだ。</p>
<p>ヨーロッパの美術館には、箱の美術家として知られるジョゼフ・コーネルの作品があちらこちらで見られ、それはシュールリアリズムのニオイをプンプンと発散させているので、てっきりドイツあたりの作家だろうと長い間思っていた。これを書くにあたってインターネットで調べたら、アメリカ生まれであることが分かり、何だか肩すかしを食ったような思いだった。</p>
<p>とはいえ、そのジョゼフ・コーネルの箱にこめられた小宇宙は魅惑的で、いつか自分も箱の中に小さな宇宙を閉じこめてみたいと願っていた。それが実現したのがこのシリーズである。ジョゼフ・コーネルは、母親と弟の面倒をみるためにニューヨークからよそへは出ることがなかったという話である。だからこそ抱きしめられるくらいの大きさの箱の中に自分だけの宇宙を封じ込めたかったのかもしれないと思うと、その切実さが伝わってくる。</p>
<p><span>1999</span>年の個展会場の壁に貼った説明書きがあるので、それを引用してみたい。</p>
<p>ボックスを使ってアッサンブレ（素材を組み立てる）する作品は、少し前から始めた新しいシリーズです。それまで、私は平面制作ばかりを長年やってきて、立体に対する憧れがどんどん強くなっていくのを抑えることができなくなりました。２次元（平面）と３次元（立体）では、軸が一つ増える以上の違いがあります。</p>
<p>絵を描く時の私の志向性は、点と線と円弧、それに平面構成を加えるという極めて絵画の基本に忠実なものです。最初は、それこそ自分の中に浮かんだアイデアを即座に立体にしてみるということが最も重要でした。それにはダンボールでできたボックスは、切ったり穴を空けたりという作業がいとも簡単で、性急に結果を求める自分の性格にあったものでした。このシリーズでは、人に見せるためというよりも、自分のアイデアの具現化といった要素の方が強く、作品が粗い仕上がりになっているというそしりは免れないかもしれません。</p>
<p>しかし、今回使用している材料の中には<span>30</span>年も前から溜め込んでいるものもあります。また、一つの作品を制作するのに、アイデアが固まるまでに２～３年かかることもあります。その間に菓子箱やお蕎麦を入れる木製の箱、チョコレート箱など、面白そうな箱がどんどんと増えていきました。</p>
<p>ボックスシリーズは、自分にとって曖昧さを整理するという意味で、これまで平面でやってきたことをかなり明確にしてくれました。現代美術はあまりにも小難しく、頭の体操になりすぎたきらいがあります。もっと観る人を大切にして、愉しんでもらいたい、喜んでもらいたい、ということを主眼として制作しましたので、どうぞ心から面白がってもらえたらと願っております。</p>
<p>最後に、タイトルについて少し触れておきたいと思います。ここ<span>10</span>年間の分子生物学、遺伝子工学の進歩は遺伝子について多くのことを明らかにしてきました。私は、<span>10</span>年以上にわたって、日本全国の医科大学研究室を取材する仕事をし、多くの情報に接してきました。<span>21</span>世紀は、まさに飛躍的に発展する遺伝子情報に基づく新しい世界観が築かれていくものと思われます。</p>
<p>「エキソンとイントロン」は、エキソンが遺伝子情報を担う部分で、イントロンはゴミとして切り捨てられる部分のことです。イントロンは、<span>1999</span>年当時はゴミ遺伝子とか呼ばれていましたけど、<span>2010</span>年現在では人類の進化において、かつては重要な役割を果たしたものという風に認識が改まってきています。このイントロンの役割が解明されれば、人類の発生過程がもっと明確になるかもしれません。私は、それを「意味と無意味」という風に敢えて訳してみました。本当は何が意味があり、何が意味がないかなんて、価値観が多様化している現代では、あまり意味がないように思われるのですが<span>…</span>。</p>
<div></div>
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		<title>アルベール・カミュのお墓</title>
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		<pubDate>Mon, 01 Mar 2010 05:53:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[柴野利彦 「カミュの本を読んだことある？」とカリカチュア漫画家のベルナール・シュネーズが私に聞いた。何のことかと思いながら、「もちろん、４～５冊は」と答えると、「この村にカミュのお墓があるんだけど、行ってみるかい？」と彼 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>柴野利彦</h3>
<p>「カミュの本を読んだことある？」とカリカチュア漫画家のベルナール・シュネーズが私に聞いた。何のことかと思いながら、「もちろん、４～５冊は」と答えると、「この村にカミュのお墓があるんだけど、行ってみるかい？」と彼が私に訊ねた。私は考える間もなく、「行きたい」と反射的に答えた。正確には、遠くにいた彼の伝言を奥さんのアレッタが近づいてきて、私に仏語から英語にして教えてくれたのだが、一緒にサントヴィクトワール山の周囲をドライブしながら、その麓の村の一つであるLourmarin（ルールマラン）に寄った時のできごとであった。Lourmarinの発音は、rが掠れたハヒフヘホの音になるので、ルーフマヒンのように聞こえる。</p>
<p>10代の終わりから20代の頭にかけて、私はカミュの手帳Ⅰ「太陽の賛歌」、手帳Ⅱ「反抗の論理」と題された２冊の本を、バイブルにも等しいほどに大切にしていたことを思い出した。その他の「異邦人」や「ペスト」「シジフォスの神話」「カリギュラ」「正義の人々」「誤解」といった本よりも、とりわけその２冊は、何回も繰り返し読んだものだ。箴言集の趣のあるそれらは、若い私にとってはこれから進むべき羅針盤ともなる本だった。</p>
<p>ついでにカミュの師匠格にあたるジャン・グルニエの「孤島」も大好きな本で、未だに頭の中に刻まれている言葉が幾つかある。「空が空の中に飲み込まれるのを見た、それが虚無についての最初の印象だった」といった記述で、私は芝生の上に寝転がり、空を見ていて雲が天空に消えていくのを見た時、それと同じことを体験した。</p>
<p>またグルニエの中には、壁の向こうから姿は見えない花の良い香りが漂ってくる記述があり、それは理由は分からないのだが、やはり未だに印象深く残っていて、どこかから梅の香りが鼻腔を通過したりする瞬間にそれをフラッシュバックのように思い出したりする。とても暗示的で、人生を豊かにしてくれる言葉なのだったと思われる。</p>
<p>ジャン・グルニエとカミュがLourmarin（ルールマラン）でも会っていたことを知ったのは、残念ながら日本に帰ってきた後だったが、改めて写真を見て振り返ると、あの美しい村がそういう雰囲気を既に奏でていたことに気がつく。ルールマランの山塊が生まれ故郷のアルジェリアのそれに似ているというのが、カミュがこの場所を気に入った理由らしい。</p>
<p>村の中心部分の高台から下って数十分歩くと、村はずれにあるカミュのお墓にたどり着く。それは古い墓地で、カミュのお墓は周囲の囲いも被いも既に無く、虚飾の一切を排した土くれが剥き出しとなり、ローズマリーが繁茂した上に一枚の墓碑銘が置いてあるだけの、ギョッとするほど質素なものだった。（http://toshihikoshibano.com/?p=891）</p>
<p>モンパルナス墓地のサルトルの墓もそれほど豪華なものではなかったけど、それと比べてもあまりにも惨めな感じがするほど素っ気ないものであった。反面、いわゆるノーベル文学賞作家としての名誉も誇りも気にしていなかったカミュらしい気もするものだ。それにしても未だにサルトルとカミュの論争が記憶に残っている。もちろん現在形として体験したものではなく、後年に読んだものだが、口下手なカミュが負けた感じで、それには判官贔屓のような気持ちがどうしても働いてしまう。</p>
<p>ルールマリンには、今でも娘さんが住んでいるというので、おそらく崩壊のままに任せたお墓というのは、確信犯としての質素さなのだと思う。“死”に余計な名誉を与えてはならないというカミュの強固な意志を反映しているような気もしてくる。しかし47歳での自動車事故死というのは、あまりにも若すぎる死に思えてならない。</p>
<p><span> サントヴィクトワール山の周囲の村の一つには、またピカソのお墓がある。それは</span>ヴォーヴナルグ城という周囲を森に囲まれた高台にそびえるお城の中にあり、カミュとはえらい違いである。お城の中で展覧会が開催されているというので、わざわざ車を飛ばして足を延ばしたのだが、家族の気まぐれで開けたり閉じたりしているという話で、中に入ることはできなかった。下から見上げるだけのお城は随分と恨めしい感じがしたものだ。</p>
<p>ピカソが、自分の骨を埋める場所に母国のスペインではなく、南仏のサントヴィクトワール山が見える場所を選んだというのも、ピカソとセザンヌの因縁の深さを感じさせる。キュビズムの先駆者としてのセザンヌを讃えたピカソだが、彼はセザンヌの苦悩を理解していたのではないだろうか、と思えてくる。</p>
<p>セザンヌを訪ねる旅が、カミュとグルニエと出会う旅になるとは思わなかった。グルニエに関しては南仏のどこかの場所だろうとしか思っていなかったので、本の中身と同じような雰囲気の村にいたことが分かって幸せな気がしてきた。南仏の風、空気、糸杉、水、食べ物、人、風景、すべてに感謝したい。</p>
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		<title>今、なぜセザンヌなのか？</title>
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		<pubDate>Wed, 30 Dec 2009 07:20:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[柴野利彦 もう随分と昔になるが、連れ合いと共に南仏を新婚旅行でヒッチハイクしたことがあった。パリ郊外のアルクイユの教会で結婚式を挙げ、しばらくしてから出かけたのだが、当たり前の旅では満足できず、そんな無謀なことを面白がっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3><strong>柴野利彦</strong></h3>
<p>もう随分と昔になるが、連れ合いと共に南仏を新婚旅行でヒッチハイクしたことがあった。パリ郊外のアルクイユの教会で結婚式を挙げ、しばらくしてから出かけたのだが、当たり前の旅では満足できず、そんな無謀なことを面白がったのだ。若いということの証かもしれない。</p>
<p>アルルやマルセイユなどを回りながら、直ぐ近くのエクサンプロバンスのことが気になったものだ。遠くにセザンヌが描いたサントヴィクトワール山をちらっと垣間見たような記憶があるのだが、正確ではない。ヒッチハイクは乗せてくれた運転手しだいなので、こちらの希望で行き先を決めることなどできず、その行き先不明のどこにたどり着くのか分からない旅を、１度体験してみたかったのである。</p>
<p>結論から言えば、実に面白い体験ではあったけれど、効率があまりにも悪すぎた。何時間も路傍に立って乗せてくれる車を待つというのは、骨の折れる仕事である。高速の出入り口が狙い目の場所なのだが、そこには少なくないヒッチハイカーが集合していて、なかなか自分たちの番が回ってこない。ブロンドの魅力的な娘は、我々を尻目にあっという間に次の車をゲットして消えていく。</p>
<p>そんなことを思いだしながら、エクサンプロバンスへと出かけたのだった。2009年10月のできごとである。古くからの友人のベルナール・シュネーズが、「エクサンプロバンスは素晴らしいよ。そこへ一緒に行こう。サントヴィクトワール山へのハイキングも」と誘ってくれたのだ。その誘いに乗せられて、我々二人とベルナールの奥さんのアレッタとの４人で出かけたのだが、それは実に夢のような旅となった。今回の「セザンヌを捜して」を二人に捧げているのも、実はそうした事情がある。</p>
<p>なぜセザンヌなのか？　もちろん美術的な意味合いで言っているのだが、それよりもそこに至るまでの過程の方にさまざまな因果が含まれていて、それが私にとってはセザンヌらしく思えてしまうのである。</p>
<p>セザンヌとの出会いは画学生時代のことで、そうした体験を経た人たちにとっては、私ごときが説明するまでもなく、自明の理ともいえるような存在なので、説明しようとすればするほど照れ臭くなってきたりもする。</p>
<p>近代絵画の父であるとか、自然はすべて幾何学に変換されるだとか、三角形の構図が最も安定しているだとか、空気を描くにはブルーを多く使うことだといった伝説に近いような言葉が沢山残されているけど、私にとってはセザンヌ自身が最後に「自分の目がオカシイのではないか？」と疑ったという逸話が最も印象深い。</p>
<p>「赤いチョッキの少年」の右腕の異常な長さを考えれば、そうした自分との闘いを最後まで追い詰めたセザンヌの人間的な疑問に、彼自身が抱えた問題の深さの謎を解く鍵が隠されているように思えてくるのである。</p>
<p>ジョン・リウォルド著『「セザンヌ」ーーゾラへの友情、その生涯と作品』という本を読むと、いかにセザンヌが人間嫌いになったかが良く理解できる。当時の画壇では、彼の作品は嘲笑の的になったことはあっても、ほとんど理解されることがなかったからだ。歴史的に絵が写真の代わりをつとめ、いかに写実的に描くかが求められた時代背景を考えれば、セザンヌの絵は下手糞な子供の絵に見えたとしてもそれほど不思議なことではない。</p>
<p>父親が銀行のオーナーという恵まれた環境にあったおかげで、パリから遠く離れた南仏の田舎に引っ込み、人と会うこともなく、静物やサントヴィクトワール山と正面からガチンコ対決をしたというのも頑固一徹を通せたのだと思われる。</p>
<p>そのサントヴィクトワール山だが、セザンヌの絵では、山が一つの固まり（マッス）として捕らえられ、ゴツゴツとした岩山であることを微塵も伺わせない。これは実際に見るまでは、まったく気が付かなかいことだった。セザンヌにとっては、細部よりも重量感のある固まりとしての山に興味を持っていたのである。面取りともいえる描き方であり、三次元の現実を二次元平面に移すことの課題こそが、彼の興味の対象だったのだ。</p>
<p>エンタシスの柱の中央が丸く膨らんでいるのは、遠くから見ると中央が痩せて見えるからであるというのは有名な話だが、それと同様に、彼の静物画では、例えばカップなどでは、しばしば光を受けている部分が膨張し、陰の部分は縮小されている。それはしかし、そのことによってまともに見えたり、あるいは少しの歪みがかえって当たり前の描写を凌ぐ緊迫感を獲得し、指摘されるまでは気がつかない。</p>
<p>セザンヌがピカソから絶賛を受け、キュビズムの先達としての栄光を担うのはまだ先の話だが、セザンヌ自身がそれを聞いたからといって果たして喜んだだろうか？　だいたいセザンヌが亡くなった頃にはピカソはまだ青の時代の絵を描いていた訳だから、セザンヌには、本当に少ない理解者しかいなかったということになる。</p>
<p>晩年には高額で絵が取引されたらしいが、その頃には父親の遺産が入っていたし、病気がちだったとかで、あまり関係なかったと思える。</p>
<p>セザンヌの絵が今見ても新しく見えるのは、やはり絵画の潮流とは関係なく、自分の問題に集中し、視覚とは何かを問い詰めたその人間存在の根底との関わりにあるように思える。</p>
<p>今回は、セザンヌの故郷であるエクサンプロバンスに行き、改めて彼が直面した問題が何であったのかを考えさせられる旅だった。</p>
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		<title>私はだれの子？</title>
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		<pubDate>Wed, 30 Sep 2009 13:13:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[柴野利彦 「私はだれの子？」　というのは、かつてよく夢想したものである。といっても美術の影響をだれから最も受けたのかという意味で、母親から冗談に言われた「あんたは、橋の下から拾ってきたのよ」といった類の話ではない。でも、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>柴野利彦</h3>
<p>「私はだれの子？」　というのは、かつてよく夢想したものである。といっても美術の影響をだれから最も受けたのかという意味で、母親から冗談に言われた「あんたは、橋の下から拾ってきたのよ」といった類の話ではない。でも、それには子供心に随分と傷ついたものだ。</p>
<p>私がだれの子なのか？　と考えるとき、先輩にパウル・クレーとジョアン・ミロがいたことはとても良く覚えている。彼らは、常に私の目と鼻の先にいて、提灯で進むべき路を照らしてくれていた。そういう言い方もできるし、あまりに私の感性とぴったりしていたので、そのまま受け入れていたような気もする。</p>
<p>しかし、精神的な意味で私に深い影響を与えたのは、アルベルト・ジャコメッティだと思う。哲学者の矢内原伊作が、ジャコメッティのモデルをしたばかりで日本に帰って来て、詩のグループの歴程主宰で、その講演をわずか2～30人しか入れないような集会所でやった時、私は直に聞いてとても感動を覚えたものだ。あの時の入場券は、父親が詩人で主宰者で、もう亡くなって10年ほどになる友人のカメラマンからもらったものだ。彼は高校生の時から写真家になるといって頑張っていた男で、岩波などの仕事をしていたのに随分と早くに鬼籍に入ってしまった。</p>
<p>ジャコメッティは矢内原伊作の「鼻の頂点が自分に向かってくる」といいながら数ヶ月かけて作った彫刻をあっという間に潰してしまい、絶望にうちひしがれることの繰り返しだったと言い、それは私をして虜にした。矢内原は、数年間にわたって、大学の夏休みをすべてジャコメッティのアトリエでまんじりともせずに、朝から晩までモデルとして過ごした体験を語ったのだが、そのニュアンスにはうんざりとさせられたといった気分も混じっていた。サルトルが「絶対への探求」といタイトルでジャコメッティ論を書き、それを読んで身震いした高校生の頃の話でもある。20代の中頃には、ジャコメッティの作品を求めて、ヨーロッパ中の美術館を訪れたものだ。</p>
<p>それでは私の父親はだれなのか？　母親は？　おそらくデッサンを勉強したことのある画学生ならだれでも、美術教室の担任はセザンヌだったに違いない。パリで、印象派美術館の近くを散歩していたときに、偶然にセザンヌの展覧会の前日だかで、観客もいなければ警備員もいないという恵まれた事件が起きたことがある。私は、彼の代表作のほとんどすべてが集まっていたその会場で、小一時間もの間、たった一人だけで豪華な空間を愉しんだものだ。やがてワインを一杯ひっかけてきたらしい警備員が帰ってきたが、私に対して一言も注意を促すわけでもなく、まったく空気が対流したほどにも何も起こらなかった。こうしたことが時々、起きるのがパリの不思議なところである。</p>
<p>さて、私が良く記憶しているのは、私が属していた「空想美術館」の館長がレオナルド・ダ・ヴィンチだったことだが、それは画家というよりも彫刻、科学、建築、哲学、音楽とあらゆる自然現象に好奇心を抱いたそのことに関して、敬意を抱かずにはいられなかったからだ。私が科学や建築、医学といった分野を勉強するようになるのも、そうした影響が否定できないと思う。</p>
<p>それからクリムトやエゴン・シーレも忘れられない。長い間、私はクリムトが好きだったし、エゴン・シーレは今でも深い関心を持っている。彼らについては、折に触れて書くこともあるだろう。ついでに触れるなら、マチスやルオー、ドランといった師匠にあたるギュスターブ・モローの虜になったこともある。あのモロー美術館で、まる一日過ごし、すべてのデッサンを１枚１枚、丹念に見たこともある。</p>
<p>大学生の時に、当時の美術家で関心を抱いていたのは、まだ健在だが、宇佐見圭治である。２回ばかり本人とすれ違い、どきどきと胸を高鳴らせながら、言葉を交わしたこともある。一方的な片思いに近い。あのシャープな感性と色遣い、最初は形象と関連性から入り、晩年になるに従って、どんどんと輪廻転生、曼荼羅の世界へと深入りして行く様子には１人の美術家としての在り方を考えさせられるものがある。</p>
<p>もちろんピカソやデュシャンからも影響を受けていることを否定しない。でも、彼らは天才というレッテルを貼るのに十分な活躍をしているし、私とは遠い存在の有名人である。私が現在でも、最も尊敬している美術家は、建築科のアントニオ・ガウディのような気がする。サグラダ・ファミリアは２回ばかり訪れたことがあり、最初に訪れた27才の時には、４～５人の石工がコンコンとノミをふるい、完成するのに100年はかかると聞き、その大陸的な時間のかけ方に圧倒され、日本の木造建築と対比させて考えたものだ。今では、クレーンなどの機械類が導入され、人間の数も大幅に増えて、そびえる塔の数も何倍かに増えている。</p>
<p>数年前に日本でガウディ展があって、その時にさまざまな意匠や力学の応用、重力のかけかたなど、はるかに遠い未来を計算しているようなところがあって、その偉大さに改めて驚かされたものだ。特に驚嘆させられたのは、あのサグラダ・ファミリアの模型を逆さに吊るし、重りをつけて重力の計算をしていたことだった。あくまで自然の形が重要なのだった。グエル公園のアールヌーボー風の外観ばかりが気になっていた私としては、ガウディの美術家としての巨大さに、圧倒されたのであった。</p>
<p>さて、ここまで話をしても私の父親と母親はだれだか分からない。おそらく私は私生児なのに違いない。ありとあらゆる美術と名のつく概念からの私生児なのだ。</p>
<p>このような話をしだしたら、もう止まることがない。しかし、私が大学生の頃に全盛となったのは、コンセプチュアル・アートという観念芸術で、手仕事を全否定するようなもので、いったんはかぶれても、あまりにも面白くないものだった。どんどん現代美術は否定が否定を産み、さらに頭でっかちで尊大となり、その上でやってきたのがアニメやディズニーランド的な空虚な巨大さと商業主義だったとは、ちょっとやりきれないものがある。現代という時代から希望が感じられず、自殺者が毎年３万人を超すような世の中で、少しでも周囲に明るさを投げかけられるもの、あるいは希望を共有できるようなものを、私は表現していきたいと願っている。そのためなら自分を消すような表現でも構わないのではないか、と思っている。</p>
<p>これほど絶望的な世の中にあって、人に心に何かを投げかけられる表現とは？　私は、地道に自分の路を一歩づつ進める以外にないような気がしている。</p>
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		<title>Pure Angelsについて</title>
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		<pubDate>Tue, 01 Sep 2009 09:13:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tshibano</dc:creator>
				<category><![CDATA[Essay]]></category>

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		<description><![CDATA[柴野利彦 これまで写真は景色が多かったので、ここら辺りで敢えて人物を挟むことにした。私はいつの間にか人物写真が得意、あるいは上手だと周囲から言われるようになり、その方面の仕事、対談だとかインタビューだとかいったものを、か [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>柴野利彦</h3>
<p>これまで写真は景色が多かったので、ここら辺りで敢えて人物を挟むことにした。私はいつの間にか人物写真が得意、あるいは上手だと周囲から言われるようになり、その方面の仕事、対談だとかインタビューだとかいったものを、かなりの量こなしてきたことは確かである。</p>
<p>ずっと小冊子の表紙で女性を撮っていたこともあるし、社長対談という10万部ばかり出ている雑誌では23年以上も継続してそのコーナーを撮ってきた。あるいは有名人インタビューみたいなものなら、俳優や作家、映画監督、詩人、スポーツ選手、歌手、学者などいろいろな職種の何百人という数の撮影を行ってきた。一般の人まで入れたら、一体どれくらいの数の写真を撮ってきたことか、実は自分でも数えたことがないので分からない。</p>
<p>私自身には、自分がカメラマンだという意識が希薄なために、仕事で撮っても遊びで撮っても、何を撮ってもそれほどプロだからといった構えたものはない。ただ、仕事が成立しなくてはギャラが発生しないので、それなりの気は遣うが、ポジフィルムの時代では、ちょっとした光の使い方でアンダーになったり、オーバーに飛んだりと随分と苦労したものだ。現在のデジカメがあまりにも簡単に撮れるので、「冗談だろ？」と思えるのは何十年もフィルムで苦労してきた人なら、みな抱く同じ感慨に違いない。</p>
<p>今回の少女たちの写真は、まだ私がアマチュア時代のものだが、さりげない魅力を引き出していると思う。「農夫の娘」というのは、私の連れ合いと私の兄と何人かでパリ郊外をドライブした時に偶然出会ったもの。あまりに可愛かったものだから、傍にいた父親に断って撮らせてもらったものだ。</p>
<p>父親も嬉しかったのか、服を着替えさせて、唇に紅までいれて、さあ、撮ってください、といった感じだった。女の子も上機嫌で、自然光のなかで無意識なポーズを次々と展開するので、こんなことってあるのだろうか、と思えるほど軽快にシャッターを押すことができた。</p>
<p>私の兄は、子供の頃からフランス語をやっていたので、何不自由なくぺらぺらと喋る。彼がお父さんと話して通訳してくれたことは、その女の子は体が弱くて外で遊ぶことが少ないということと、最近、この辺りでは野ウサギ病が流行っていて、食べられなくなった、ということであった。その女の子の名前は残念ながら忘れてしまったのだけど、私と片言のフランス語で話し、クローバーの冠を作り、頭にかぶせて撮ったりした。</p>
<p>私の左手の薬指に、草で作った小さな指輪をはめようとしてくれたのには驚かされた。きっと彼女の好意なのだろうと、このおませさんと思ったものだ。あれから25年以上が過ぎて、果たしてあの少女はもう結婚して、同じような可愛い子供を産んでいるのだろうか？</p>
<p>もう一人の「友人の妹」というのは、いまだに付き合いのあるフランス人家族の一員で、今では大学で考古学を専攻して卒業し、既に就職して働いている。彼氏は１ｍ80㎝以上もある大男で、彼女もすっかり成熟して様変わりしている。</p>
<p>ちょっとはにかんだ表情をする女の子で、お父さんが目の中に入れても痛くないといった表情で可愛がっていたのが、とっても印象的であった。</p>
<p>子供はあっという間に大きくなってしまう。ほんのわずかな期間にだけ訪れる、天使のような少女時代をカメラで記録できたことが、私にとっては至福そのものであるに違いない。</p>
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