旅と写真について……大竹昭子

柴野利彦さんがこの30年あまりのあいだに撮った写真を、いま見ているところである。
パリ、ノルマンジー、アフガニスタン、モロッコ、バリ島、ボロブドゥール、ニュージーランド。旅のことは断片的に聞いていたが、これほどいろいろなところを訪ね、写真に撮っていたとは知らなかった。

ウェブサイトにあるプロフィールによると、柴野さんは1974年、一年かけてユーラシア大陸を一周し、80年から82年にパリで暮らした。20代から30代にかけて、旅に多くのエネルギーを割いてきたことがわかる。パリには2年半もいたのだから、生活感覚に近かったと思うが、それでも帰るべき場所のことを思いつつ過ごす時間には、旅のにおいがまじっているはずだ。

短い旅で撮る写真と、長く留まって撮る写真とは、当然ながら内容がちがってくる。短い滞在では、見るものに驚き、反応しながらシャッターを押す。撮る興奮に全身が沸き立ってくる。

だが一箇所に長く留まると、最初の興奮が静まる時期が必ずやってくる。そのとき、何にカメラを向けるかによってその人が現れ出る。だから、私にとってとりわけ興味深かったのはパリの写真だった。柴野さんの撮ったパリには、エッフェル塔も、セーヌ川も出てこない。パリはフォトジェニックな街で、写真になるものがごまんとあるのに、それらはひとつも撮ってないのである。

その代わりに彼が目を向けたのは、街のあちこちに置かれた彫刻である。あるいは建物の窓、ドアのノブ、あるいは通り、広告塔などである。彼はこれらの造形に惹かれて撮っている。と同時に、これらのオブジェに自分を投影しているようにも感じる。異邦人として過ごす彼と、街のなかに黙って佇んでいる彼らとは、よき対話の相手であったのではないだろうか。

パリっ子は、こういうものがあることさえ気づいていないだろう。忙しく街を行き来する生活者の目に、道端のものは映らない。旅人だけが、街に佇む「孤独な住人」に目を向けるのだ。旅とは、ふだんは見逃しているものが見えてくる時間のことを言うのだ。どの写真にも、よそ者を放っておくこの街の重く冷たい空気がよく出ている。歌にうたわる「五月のパリ」ではなく、寒々しい季節を撮っているのも印象的だ。まるでそういうパリに、彼自身を重ねているかのようだ。

私の知っている柴野さんは、話好きな陽気な人物である。まわりの人に気さくに声をかけ、細かい気遣いをする。だが、もしかして彼が本当に心安らぐのは、造形物と対話しているときなのではないか。ボロブドゥールやイランのレリーフを撮ったもの、バリ島の浜辺に横たわる手漕ぎ船を撮ったもの、ノルマンジーの海岸に突き出た古城を撮った写真に伸び伸びとした爽快感があって、そんな想像を刺激する。

ひとりの人間のなかには「何人もの私」がいる。ふだん人に接しているときとはちがう「私」が奥底に潜んでいる。それをあぶり出してくれるのが写真なのである。

著述家(代表作に『眼の狩人』がある

★『Gallery “‘espoir”』オープン時に掲載