「増殖」について

柴野利彦

「増殖」というタイトルだが、実際には「細胞分裂」とでも名付けた方がぴったりときそうなものである。今思えば、細胞分裂をしながら増え続けるというふうにも解釈できる。

もう既に最初にこのアイデアが浮かんだときの詳しい事情は忘れてしまった。日付を見ると、1983年が始まりなので、かれこれ30年前に遡る話になるので無理もないだろう。それでもあえて振り返ると、この頃はゲノムの持つ遺伝情報が盛んに注目され始めたときで、私も遺伝子に関する本が目につけば端から目を通して少しでも理解しようと努めたものである。たまたま、医学関係の仕事を始めた時期と重なり、第一線の研究者たちから話を聞いたりして、生命科学の最先端の状況に胸を躍らせていた。

最初の絵の20枚ばかりは、数年かかって少しづつ描き、イメージを膨らませながら、10枚を一つの単位にして色を変えて描いていくつもりだった。100枚くらいを目指していつか完成すればいいなと思っていたのだが、1992年にオークギャラリーという家具店で個展が開けることになり、この年に区切りをつけるために残りの30枚前後を一気に描いたような気がする。

随分とあやふやな記憶で心許ない限りだが、50枚を描いてすべてを展示することができたことはよく覚えている。このうちの10枚くらいが売れてしまい、その後、その部分を描き足したために制作年度が前後することになってしまった。当時は、だれが購入してくれたのかを記憶していたのだが、今となってはだれが何番を買ってくれたのか、定かではない。

生物が、遺伝子の中のACGTというわずか4文字の暗号の3文字を使って20種類のアミノサンを指定し、そこからタンパク質が作られるという生命の神秘に触れることが面白く感じられた頃の制作である。BOXシリーズで、エクソンとイントロンという副題を付けたのも、遺伝子の振る舞いに興味をもっていたこの頃のことである。

人は個性の発露といったことで悩むようにできているが、生物学的にみれば後世に優れた子孫を残すことが最大の使命であり、そのつながりで考えれば個人など一片のパズルのピースに過ぎない。成功だとか不成功だとか、肩書きだとか地位だとか、金持ちだとか貧乏だとか、まるで無意味な欲望が我々を悩ませるようにできているけど、どうも煩悩の中にしか生命というものは存在しえないものなのかもしれない。

以前、「なぜセザンヌなのか?」のところでピカソはセザンヌの苦しみを理解していたのではないか? と書いたが、朝日新聞の文化欄で、仏文学者の海老坂武が面白いことを書いていたので、紹介しておきたい。

おそらく、私たちがピカソの城館を訪れて入れなかった時期と同じ頃らしいのだが、「ピカソ・セザンヌ展」が開催され、その城館が初めて公開されて内部を見てきたことに触れている。

やはり私が推測したように、ピカソはサント・ヴィクトワール山がよく見えるシャトーを手に入れたことがよほど嬉しかったらしい。セザンヌを本当に尊敬していたのだ。

ピカソの寝室を描写した海老坂の文章を引用しよう。

「何もない。広大な空間に、装飾らしきものは何一つない。壁際にダブルベッドが一つ。傍らに小卓と旧式の受話器、天井からは裸電球。それだけだ。」

食堂にも触れている。

「田舎風の木製の長テーブルと椅子、簡素そのものだ。そして3階に上がって目にしたのが、このがらんどうの空間。」

この文章は、私が抱いていた疑問をすべて氷解してくれたのだった。あれだけ派手にやっていたピカソの最晩年は、セザンヌの境地に一歩でも近づくことだけが願いだったのかもしれない。それでこそ絵画や美術における革命児のピカソだと思って納得したのである。エクサン ・プロバンスの旅は、ピカソとセザンヌの関係を紐解くうえでも貴重な体験だったといえる。

私も改めてセザンヌの精神に一歩でも近づけたらと願って止まない。