どこか遠くへ行きたい?

柴野利彦

 日常生活に疲れ、ふと、どこか遠くへ行きたいと思う人は少なくないのではないだろうか? そこが桃源郷ではなくても、エキゾチックで夢幻の心地良さを与えてくれるような理想の場所に。たった1枚見たことのある写真から、かってに想像を膨らませ、そんな素敵な場所に思いを馳せ、夢は枯れ野をかけめぐるという心境である。
 かつての私にとっては、映画は未だに見ていないのだけど、「渚にて」の波打ち際の浜辺のスチール写真がそうであったし、中学生の頃に見たフランスの「モン・サン・ミッシェル」の写真がそうであった。「モン・サン・ミッシェル」は、フランス人の友人がその後、1980年と81年の2回、車で連れて行ってくれて感激したのだが、大観光地になっていて、少し興冷めしたのも確かだった。
 「モン・サン・ミッシェル」の写真は、姉が買っていた「女性自身」だかのグラビアページに夢を誘うように掲載されていた。『長い間修道院として使われ、その後牢獄として使われた海に囲まれた孤城である』といった、キャプションが付けられていたように記憶している。寂しい冬景色の満潮の海の上に、ポツンと三角形の姿が浮かんでいて、いかにも子供心の夢想を刺激するには満点といえるものであった。
 何年前だか忘れたが、いろいろと整理していた時に、何かに挟まれるような格好でこの写真がひょっこりと顔を出して、私に子供心に抱いたときの気持ちをフワーっと思い起こさせた。改めて良く見ると、印刷技術が未熟で微妙な色彩が出てない上に、ざら紙に印刷されているといった印象で、こんなものでよくもまあ私の心を虜にしたものだと、驚かされた。
 「モン・サン・ミッシェル」の写真は、4~5ヶ月後に、このGallery のphotoのコーナーで掲載するつもり。
 かつて女性雑誌が少なかった頃、「女性自身」や「週刊女性」というのは、日本の女性たちのナビゲーター的な役割を果たしていた。私は、その頃、「最近の女性たちは、胸を衣服で押さえつけて隠さなくなってきた。これは良いことです」といったコメンテーターの記事を読んだことがある。
 当時は、胸の膨らみが服の上からでも分かるのを慎みがないとされた雰囲気があったのだろう。まだ恥や慎み、大和撫子といった観念が日本人の意識の中にしっかりと根を下ろしていた時代である。現在の半裸の女性達が通りを闊歩している様子を見たら、くだんのコメンテーターは仰天して卒倒するのではないだろうか。
 当時は、海外に行くのは夢の夢、片道の航空券が45万円、給料が良くて5万円くらいの時代だったから、今の金額に直したら200万円くらいの感覚ではなかっただろうか。日本は貧しく、海外に行けるのは少数のお金持ちだけだった。子供時代、私にとって海外は、憧れの対象であった。
 私の父親が近代絵画の巨匠・画家靉光の親友だったこともあり、また画家の麻生三郎さんとも親交があったりして、私も麻生さんのアトリエには何回も父親のお供をして訪れている。靉光の作品の中に、「貴婦人」という素晴らしい絵があり、この絵の裏には、父親宛に「柴野利秋氏、受け取ってください」と墨書されている。若い頃に同郷の広島で友人となり、東京に出てきてからも頻繁に行き来していたようである。
 私は後年、父親が麻生さんに「次男は絵描きになるかもしれない」と嬉しそうに話していたというのを、麻生さんから直にお話を伺ったことがある。こんな環境で育ったこともあり、いつの間にか画家になるのが自然といった雰囲気があって、高校生になるとデッサンの勉強を始め、大学も美術に進んだ。デッサンを始めたのとちょうど同時期に、輸出用のアサヒペンタックスの一眼レフを手に入れ、写真も撮り始めた。私の中では、絵と写真は切り離せない双子の兄弟となっていったのである。
 画家を志したのにもかかわらず、大学生の頃に最も流行っていたのは、コンセプチュアル・アートという観念芸術で、少し真似ごとをしてみたけど、面白くなくて止めてしまった。もう平面絵画も未来がないと思い、しかも遠くへ行きたいという冒険心からユーラシア大陸一周の旅に出かけ、まだ今みたいに情報がない時代だったので、危険なんてまったく顧みずに飛び込んでいくことができたのだった。
 旧ソ連から北欧を通って、旧西ヨーロッパに入り、美術館を端から見て回った。その掃いて捨てるほどある巨匠たちの絵画や彫刻に圧倒され、もう私の入り込む余地などどこにもないことを思い知らされ、画家になる考えをまったく捨てようと思った。
 そして写真にのめりこむことになったのである。写真は、ダゲールによって銀板写真が1837年に発明されてからそれほど間がないこともあって、まだ可能性が残されているように感じたのだ。最近のデジタル写真の出現は、写真の歴史の中では革命的なできごとだと思われる。
 どこか遠くへ行きたい、といった旅の現実は、お金が無くて若さとエネルギーだけが溢れている身にとっては、ホームレスを実体験するようなもので、かなり苛酷なものだった。もうお金のない旅などしたくないと思う。でもこの時のユーラシア大陸一周の旅が、私自身の現在を支えているほどの果実となったことは確かである。コンセプチュアル・アートに脅かされる必要もないことを実感したのも、この旅からであった。
 今回の写真は、1980年から1982年にパリに滞在したときのものである。しばらくはパリの写真を続け、以後、ノルマンディやカンヌと展開し、アジアへと移っていくつもりである。
 ドローイングの方は、一度消したはずの熾火が燃え上がっていったもので、内側から湧き上がってくるものをどうしてもとどめておかなくてはいられないという、情念みたいなものから出発している。意図して描くと私にとってはつまらなくなり、無意識な状態で描いたときのものだけが、私自身をして残しても良いという承認となる。
 今回の作品に関しては、私としてはまったく意識していなかったにもかかわらず、何人かの専門家から、イタリアの未来派の影響を指摘されたのだが、残念ながら私自身は未来派に興味を抱いたことはただの一度もなく、偶然のそら似といえるのではないかと思う。
 これから何年間続けられるか分からないが、続けられる限り、ドローイングと写真を発表していこうと思っている。