初めて撮った写真

 柴野利彦

 

 初めて撮った写真を覚えてる?

 きっとほとんどの人が、そんな質問をされても思い出すことができないのではないだろうか。でも、別に自慢をするわけではないが、私はそれを覚えている。

 正確な年月は、もうとっくに記憶の彼方に消えてしまい、おぼろげなイマージュが空に浮かぶ雲のように湧き上がるだけだが、おそらく7~8歳の頃である。駄菓子屋で買ったお菓子についてくるシールを50枚だか集め、最後の1枚がなかなか手に入らなかったのだが、それも手に入れて、オモチャのカメラをもらったのだ。

 駄菓子屋は、下北沢駅前に広がる闇市のようなゴミゴミした場所の中にあった。そこは、1軒ばかりの間口のお店がぎゅうぎゅうに肩を並べ、魚屋からは常に威勢のいいかけ声が飛び交い、魚介類の上には大量の氷が絶えず撒かれ、野菜や生もの、乾物類などの雑多な食べ物や生きている人々からたちこめる饐えた臭いが漂い、飲み屋のお姉さんが化粧気のない間延びした顔で歯を磨き、猫が鼠を追いかけて逃げ場の無くなったネズミが窮鼠ネコを噛むのごとくに反撃するのを目の当たりにし、犬が建物の背後で交尾をし、つまり最も人間らしい生活空間が、私の子供時代を過ごした場所であった。

 現在、ここは再開発を進めているらしい。役所の人間は、無色無臭、衛生無害の現代的な空間を構築して、ご満悦に浸るのかもしれないが、人々が日々の糧を求めた市場のような空間は、一朝一夕にしてできるものではない。

 そのゴミゴミした空間の一角で、オモチャのカメラを手に入れるために、最後のシールの1枚を手に入れた時の興奮を、今でも思い出すことができる。どっきりとし、喜びをこらえ、素知らぬ振りをしてそれを手に入れたのだ。近所のガキどもを相手にしていた小柄でしわくちゃのオバアチャン、あの当時の年配女性のユニフォームはいつも割烹着だった。そのオバアチャンから、そのシールは貴重だから「あげられない」とでも言われそうな気がしたのだ。

 今、振り返れば、一体幾ら投資したのだろう? と疑問が湧いてくる。1つのお菓子が5円か10円だったとしても、現在の貨幣価値とはまったく異なるので、どこにそんなお小遣いがあったのかも不明だ。突然、思い出したのだが、半分くらいの枚数を、途中で集めるのを放棄した子供から譲り受けたのだ!

 やっと手に入れた50枚のシールを握りしめ、悪ガキ5~6人で連れ添って、下北沢から梅ヶ丘の根津山にあった小さな工場まで、てくてくと歩いてカメラをもらいに行った。幾つもの防空壕が放置されていた根津山は、幼い頃には良く遊んだ最も身近な里山だった。現在は、整備されて梅の名所の都立羽根木公園として生まれ変わっている。

 小学校にあがるかあがらないかの年端のいかない子供たちだけで、よくも工場に直接もらいに行くようなことをしたものだと、今なら思うところだが、かつてはそれが当たり前だった。戦後直ぐの大人たちは、生きることに必死で、子供たちまでには手が回らなかったのだ。あるいは、子供たち同志の連帯や助け合い、上の子が小さな子を自然に面倒みる不文律のようなものがあったように思われる。

 やっと手に入れたオモチャのカメラで初めて撮ったのが、小学校の社会見学で訪れた羽田空港の飛行機だった。それまで飛行機といえば、空高く舞い上がって行く雲の上の存在だったのだが、それが目の前に待機しているのを見て、ビルの屋上から興奮しながら夢中でシャッターを切ったのである。

 その現像したネガはもうとっくの昔にどこかに消えて無くなってしまったが、モノクロのコンタクト(密着写真)は未だに残り、探せばどこかにあるはずだ。目の前の巨大な飛行機が、ハーフサイズ画面の中で遠くにポツンと写っているのを見て、どれだけガッカリしたことか。迫力がまったくなくなっていたのだ。もしも、その頃に子供時代の遊び仲間を撮っていたら、どれほどか面白かっただろうにと思うのだが、時すでに遅しである。

 そのオモチャのカメラは、いわゆるバカチョンといわれるカメラのようにワイドレンズが組み込まれていたのだと思う。ワイドレンズで、飛行機全体を収めようと思って、離れて撮ったために、飛行機が遠くに行ってしまったのである。もっとも、屋上から撮るのだから近づくことなどは、思いもよらない。こんな時は、翼の一角にでも近づき、あるいは操縦席の近くにまで近づき、シャッターを押していたら、どれほどかパースペクティブが強調された写真が撮れていたのにと思うのだが、それは大人の知恵というものだろう。

 ということで、私は写真に対してはひどく失望し、カメラはそのままにうっちゃられ、2度と写そうと思うことがなかった。再び、写真を撮ろうと思うようになったのは、17歳の時に、突然降って湧いたようにアサヒペンタックスの輸出用の一眼レフを手に入れてからである。