不法滞在とカメラ

 柴野利彦

 

 東京で暮らしていると、外出時にカメラを常に携帯するなどということはないが、私は、これまでに2度にわたってカメラと非常に仲良くなる体験をしている。

 1度目は、ユーラシア大陸を1周した時で、カメラはいつも私と一緒だった。私は、ほとんどアマチュアといってもいいくらいの腕前でしかなかったけど、17歳で一眼レフを手に入れて以来、なぜだかカメラと私は相性がいいはずだ、仲良しになれるという確信めいたものを持っていた。

 写真学校に通ったわけでもないし、だれかプロのアシスタントを務めたわけでもない。好奇心の赴くままに、ただがむしゃらに写真を撮り、失敗することで撮り方を学んでいったのである。

 若さとエネルギー溢れる怖いもの知らずであった私は、向こう見ずそのもので、ユーラシア大陸一周を企てた。アフガニスタンで、アメリカ人の旅行者が山賊に襲われて殺されたといった話を聞いても、そいつは運が悪いだけで、決して自分の身には起こらないだろうといった楽観的な気分がいつもあった。今から考えれば、それは誰にでも起きる確率の問題だと思えるのだが、その時にはそうは考えなかったのだ。

 あの当時、私にとってのカメラは、いろいろな場所に入り込んでいくためのパスポートであった。どんな奥地に入りこもうと、私は獲物を逃さない狩人の気持ちになって、好奇心旺盛、貪欲さそのものの目となって、シャッターを切ったのである。

 2度目は、私とカメラの親密度がより深まったのだが、パリに2年半滞在した時のことである。最初のうちは、ソルボンヌの外国人向けのフランス語講座の学生だったので、滞在ビザを持っていたのだが、そのうち切れてしまい、不法滞在者となってしまった。初級講座が終わり、その修了試験にも受かり、中級講座の手続きをすればきちんと延長ビザを取得できたのだが、私には学校に払う余分なお金がなかった。

 パリは、歴史的に世界中からやってくる不法滞在者の多い町である。地下鉄の構内で大勢のポリスが横並びに壁を作って通せんぼをし、乗客の一人ひとりを吟味しながら不審者を見つけ出すなんてこともしょっちゅうだった。私はもう押しも押されもせぬ立派な不法滞在者だったので、苦肉の策として観光客に化けることにし、カメラが手放せなくなってしまった。

 ポリスの姿を見つけると、とたんに私はカメラをこれみよがしに胸の前にぶら下げ、フランス語は一切分からないツーリストに徹することにした。横並びになって前を塞いでいたポリスの列に対しては、ど真ん中をどうどうと突っ切ることにした。疚しい人間なら、絶対にそんなことはしないだろうという裏をかいたのだが、それは見事に成功し、ただの一度もポリスから尋問されたことはなかった。

 しかしポリスは実は甘くなく、アラブ系やアフリカ系の人間には非常に厳しかった。私が何度か目撃した光景では、屈強な体のポリスが、ただ向こうから歩いて来ただけの少し色黒のアラブ人の若者に対して、いきなり体をつかんでガッツンと壁に叩きつけると、数人で囲みながら強圧的に「パピエ」、「パピエ」と要求するのである。身分証明書のことだが、私ならパスポートを見せろといわれているのに等しい。

 パピエを疑い深そうに調べ上げてからしぶしぶ解放するのだが、私にしてもパスポートを見せろと要求されたら叶わないので、そうそうにその場を立ち去るしかないのであった。

 こうして2年半の間、いつもカメラは私の傍を離れることがなかった。これは、不法滞在者の切実な問題をクリアするとともに、何かあった時にサッと写真が撮れるという本来の目的にも叶ったものだった。

 

 「静寂の時」は、こうした私の個人的な事情を背景にしながら撮影したものである。パリの写真は今回の3回目でいったんお終いにするつもりなので、簡単な説明をしておきたい。「アルクイユ」というのは、私と連れ合いが住んだパリ郊外の町の名前である。郊外といっても、新宿駅から中野駅くらいの距離なので、パリ市内がいかに狭いかを物語っているに過ぎない。

 連れ合いはフランスの作曲家エリック・サティを勉強していたのだが、そのサティが晩年暮らした場所がアルクイユであり、本当に偶然に、その終の棲家は我々のアパートの目と鼻の先にあった。

 「ソウ公園」というのは、普段乗り降りしていたラプラス駅の3つ先にあった公園で、ヴェルサイユ宮殿を小型にしたようなガイドブックには載ってない美しい庭園だった。ルイ14世が狩りを愉しみ、植物の幾何学模様や巨大な十字架型の運河があり、アプローチが坂になっているので、向こう側の水面が浮き上がって見えるような設計がなされていた。

 現在は綺麗に改装されているが、敬愛するアジェが廃墟となったお城を撮っている場所でもある。私は時間があると、観光客がまったくやって来ないソウ公園に行って過ごすことが多かった。

 特筆すべきは、パリの位置が北海道の稚内よりも北のハバロフスクとほぼ同じ北緯49度にあり、天候が変わりやすいことである。太陽は低い軌道を移動し、突然、森の中を散歩していると、空からダイナミックな光束が落ちてくることがあった。それはスポットライトのような神々しい演出効果をもたらし、私は三脚で固定した200ミリのレンズにテレコンバーターをつけて400ミリ仕様とし、数時間も光の中を人が通り過ぎるのを待った。

 光束は実に気まぐれで、あちらこちらを移動しながら、あっという間に消えてしまうので、シャッターチャンスというのは、極めて短かった。こうして撮った写真を、CGが使われているのではないかと私に尋ねた人がいるが、私はそんな器用なソフトは持っていないので、あるがままの光景である。

 「チュイルリー庭園」というのは、ルーブル美術館の先にある中庭みたいな所、といった方が分かりやすいかもしれない。連れ合いがパリでコンサートをすることになった日、珍しく朝から雪が降り出し、会場へのピアノ搬入が開演ぎりぎりまで遅れ、私はもてあました時間をカメラを持って会場近くをぶらつき、チュイルリー庭園に紛れ込んだのだった。余談だが、連れ合いのコンサートは、日本に帰って来てからも大雨や嵐に見舞われたりと、たいていひどい荒れ模様の天候になることが多い。それなのに集客状況はまあまあなのだから、おそらく悪運を味方につけているのだろう。

 パリはどうやって撮ってもポストカードになってしまうので、いつもなら景色を撮ることに躊躇するのに、雪化粧された町は普段とはまるで異なった姿になっていて、さらに小さなストロボの光を降ってくる雪片にぶつけることで多分に幻想的な雰囲気を作ることができたのだった。

 最後に、「サンマルタン運河」は、20代の中頃にパリに半年間滞在していた時に撮ったもので、今回、モノクロのネガを整理していたら出現し、あまりに懐かしくてこの3回目にかろうじて仲間に加えさせてもらうことにした。アジェの古き良き時代のパリを探していた頃の雰囲気が良く出ていると思う。

 7月は、ノルマンディーを予定している。