アーティストとは?

柴野利彦

 

 先日、私の友人に「自分のことをアーティストだとは思っていない」と言ったら、ひどく驚かれた様子で、こちらの方がよほどびっくりしてしまった。その方は、世の中でちゃんと活躍されているイラストレーターなので、「あなたの方がよほど、立派なアーティストですよ」といいたいくらいなのにである。

 海外に出れば、アーティストというのもそれほど特殊なことではなくて、美術や音楽に携わっていれば、自己紹介をする時にアーティストだといってもあまり違和感を感じることはない。ところが、日本では、アーティストというと少し違っていて、誇り高い職業的な意味合いが多く含まれているように思われる。

 あるいはレコードを1枚出したくらいで、ミュージシャンといわずにアーティストと標榜するところにもその憧れのイメージがまとわりついているように感じられる。何もそれを目の敵にする必要などまったくないのだが、ゴッホやゴーギャンが自らアーティストを名乗って天狗になっていたといった様子はない。自らの才能の限界と戦っていた画家というイメージがあり、それをぎりぎりまで追い求めたという点で極めて重要で貴い存在だと思うのである。

 ピカソはもしかするとアーティストだったかもしれないけど、晩年まで描くという行為を決して止めなかったし、美術の革新を推し進めた点では潔かった。もっと潔かったのは、マルセル・デュシャンだろうけど、デュシャンは生存中に既にカリスマ的な伝説が身辺に漂い、それを十分に利用していた点ではアーティストだったような気もする。

 私がなぜ、自分のことをアーティストではないと思っているのかといえば、私はアーティストを気取ることをやっているのではなくて、あるいは世の中を驚かす鬼面人の戦略家とも異なり、自分の好奇心の赴くまま、面白いと思うことをやっているに過ぎないからである。

 私は自分がアーティストであると思う以上に好奇心家であり、面白がり家である。写真に関しても美術に関しても同じで、面白いと思うから撮る、好奇心があるから撮る、そして描いたり造ったりするのである。こうなると公募展だろうと賞だろうと、私にとっては意味がない。私にとって意味があるのは、昨日よりも今日は少し先に行けただろうか、といった自分にとっての歩みである。1歩でもいいから先に進みたい、もしかしたらもっと高い位置から下を眺めれば、視界が開けるかもしれない、といったかなり個人的な欲求である。

 もしかしたら私がアーティストという言葉を忌避するのは、母親からさんざん口を酸っぱくして言われてきたことと関係があるかもしれない。それは「芸術家を気取るのだけは止めてくれ」というもので、父親のグループには多くの芸術家がいて、飲んで議論ばかりして、家にお金を入れず、母親が働いてやっと家計を支えていたという現実があった。

 とはいえ父親の親友には、日本の近代絵画で燦然と光り輝く画家の靉光がいたりするのだから、そんじょそこらの中途半端な芸術家集団ではなかったはずである。靉光さんの長女の紅(べに)さんとは、ここ数年、親交があり、この7月10日には我が家にいらっしゃり、一献傾けるのだが、とにかく家族の貧窮度合いは、普通ではなかったと、「それはもう、貧乏なんてものではなかった」と振り返るのである。アーティストは本人を除けば、周囲をあまり幸せにしない。本人だって、表現に苦しみ抜いているはずだから、一般的な価値観では、誰も幸せな者などいないのがアーティストなのかもしれないのである。

 昨今のアニメまがいのアートが億の単位で取り引きされているのを見ると、私にはもう何も言葉がないとしか言えなくなる。もう少し引いて考えれば、もともとそれらは、流通経済の中で株や現金、金銀と同じ蓄財として扱われてきた歴史があり、金になる木がアートであると考えることもできるのである。そこでは株屋と同じく、絵の値段を吊り上げる凄腕のプロデューサーがいた方が勝ち組となる。

 それにしても新聞の広告などで吐き気を催す絵や彫刻、仏像などが、あたかも巨匠の作品であるかのように、詐欺そのものの宣伝をしているのを見ると、商業アートも自滅の道を歩んでいるように感じられてしまう。この点に関しては、子供の邪気のないイタズラ描きの方が、はるかにましというものである。

 この『Gallery “L’espoir”』をオープンしてから3ヶ月、あっという間に過ぎてしまい、なんだか暖簾に腕押しの感があって、これからの新たな展開を考えること仕切りである。絵画は、今度は10月1日に更新をすることになるので、またどうぞご覧ください。願わくば、再び感想などを頂けると、嬉しいのだが。