「ノルマンディーの風」について

柴野利彦

グランヴィルに行ったのは、ほんの偶然、連れ合いの友人だったフランス人女性Aが、ノルマンディーに遊びに行こうと誘ってくれたからであった。そこがどういうところかもまったく知らず、誘われるままに連れ合いと電車に乗って、先に行っていた友人Aと現地で落ち合ったのが最初であった。

その友人家族との交流が、結局、フランスという国を好きになる触媒の役目を果たしてくれたような気がしている。彼女の兄Rは、セスナ機のオーナーで、私たちを乗せてグランヴィルの上空を遊覧飛行してくれたのだが、私の連れ合いは乗ってる間中、目をつむり、「もういいから降ろして」とわめき続けたのだった。

その兄Rとは、昨年、奥さんのNと友人夫婦と一緒に4人で日本に観光にやってきて、30年ぶりくらいに再会した。すっかり落ち着いた雰囲気で、人の善さが滲み出ているのは昔も今も変わっていなかった。奥さんのNは、ノルマンディーの田舎の木訥な人だったが、寡黙だったのがすっかり変身して、英語を喋る社交的な性格になっていたのでびっくりとさせられた。

グランヴィルの館の砂の庭で焚き火をし、夜まで拙いフランス語と英語で語り合ったのはほんのこの間だったと思っていたのに、いつの間にか30年もの歳月が介在していたことに驚きを禁じ得ない。父親は外交官で、日本にも4年間滞在していたことがあり、友人のAも長男のRも弟もみんな日本に子供の頃に滞在していたことがあって、日本びいきなのだった。医者の娘だった母親はラオス人で、やはり日本びいきだった。父親がラオスに滞在していた時に見初めたもので、パリでは母親のお母さん、Aのお祖母ちゃんも当時は健在で、私も何度も会ったことがあり、その優しい笑顔が今でも忘れられない。

グランヴィルでは、父親は私と一緒にりんご園の庭を散歩しながら「私はフランス人じゃないんだ、ケルト人の血を引いているんだ」と説明したので、どこをどう見てもフランス人以外の何者でもない人間から、そんなことを言われたって困るよな、と思ったのをよく覚えている。フランス人は3代遡れば、他の国の血が流れているといわれるほど、雑種民族であるのを、目の前で見るような家族であった。その父親は昨年他界し、お祖母ちゃんも随分前に亡くなった。

Aの兄弟と兄の奥さんたちと、パリ郊外のランブイユの森にハイキングに行き、そこで自転車を借りて、あてどもなくきままに進んだり、サンドイッチのお弁当を食べたりしたのも、もう今では遠い青春の一こまになってしまった。当時の写真を引っ張り出すと、彼らがみな若くて、当然、私たち夫婦も若くて別人を見ているような感じになる。

やがて友人のAが結婚し、その旦那Bは今では有名なカリカチュア漫画家として、パリで活躍しているのだが、私たちが付き合いだした頃はまだ、無名といってもいいほどであった。彼は山岳ラリーで13回も優勝をしているほどのドライバーで、2回目のグランヴィル行きは、彼がハンドルを握り、一般道を140~160キロで飛ばし、ここは別に停止しなくても大丈夫じゃない、と私が思うような交差点でピタリと停まった瞬間、見えない角度から猛スピードで車が通り過ぎたといったことが数回あった。

彼らは、今では男の子と女の子のいる4人家族で、昨年と一昨年、2年連続で日本に観光旅行にやってきた。今度は私が運転して彼らを日光に連れて行ったり、長野県の森の中に泊まりに行ったりとしたものだ。

今回の写真は、グランヴィルに関しては1回目に行った1981年のものである。グランヴィルは、フランスでも憧れの景勝地のようで、おそらく裕福な階級の人々のリゾート地となっているような気がする。歴史は古く、12世紀後半には崖の上の城塞都市として始まり、14世紀中頃にはイギリスの所有地になったりもしている。もっと昔は、ザルツブルグ辺りから辺境に追いやられていったケルト人が住んでいたのではないかと推測される。随分と古い石造りのアーチや、ちょっとした石飾り、ボレ(鎧扉)、幾つも穿たれた鍵穴など、人間の痕跡が歴史を感じさせるのだった。

Googleで検索すると、クリスチャン・ディオールの生誕地と出てくる。そういえば崖の上の別荘が並んだ場所に、ピンク色の家があり、あれがそうだと説明してもらったが、今はディオールの博物館になっているそうである。

モンサンミッシェルは、2回目に行った1987年の撮影である。1回目に行った時には、あまりの観光地で幻滅し、シャッターを押すことができなかった。今回の8月掲載分に関してはグランヴィルの写真に限定しようと思っていたのだが、前回は見つからなかった尖塔の上の聖ミカエルの写真がストックの中からひょっこりと顔を出したので、付け足させてもらった。