私はだれの子?

柴野利彦

「私はだれの子?」 というのは、かつてよく夢想したものである。といっても美術の影響をだれから最も受けたのかという意味で、母親から冗談に言われた「あんたは、橋の下から拾ってきたのよ」といった類の話ではない。でも、それには子供心に随分と傷ついたものだ。

私がだれの子なのか? と考えるとき、先輩にパウル・クレーとジョアン・ミロがいたことはとても良く覚えている。彼らは、常に私の目と鼻の先にいて、提灯で進むべき路を照らしてくれていた。そういう言い方もできるし、あまりに私の感性とぴったりしていたので、そのまま受け入れていたような気もする。

しかし、精神的な意味で私に深い影響を与えたのは、アルベルト・ジャコメッティだと思う。哲学者の矢内原伊作が、ジャコメッティのモデルをしたばかりで日本に帰って来て、詩のグループの歴程主宰で、その講演をわずか2~30人しか入れないような集会所でやった時、私は直に聞いてとても感動を覚えたものだ。あの時の入場券は、父親が詩人で主宰者で、もう亡くなって10年ほどになる友人のカメラマンからもらったものだ。彼は高校生の時から写真家になるといって頑張っていた男で、岩波などの仕事をしていたのに随分と早くに鬼籍に入ってしまった。

ジャコメッティは矢内原伊作の「鼻の頂点が自分に向かってくる」といいながら数ヶ月かけて作った彫刻をあっという間に潰してしまい、絶望にうちひしがれることの繰り返しだったと言い、それは私をして虜にした。矢内原は、数年間にわたって、大学の夏休みをすべてジャコメッティのアトリエでまんじりともせずに、朝から晩までモデルとして過ごした体験を語ったのだが、そのニュアンスにはうんざりとさせられたといった気分も混じっていた。サルトルが「絶対への探求」といタイトルでジャコメッティ論を書き、それを読んで身震いした高校生の頃の話でもある。20代の中頃には、ジャコメッティの作品を求めて、ヨーロッパ中の美術館を訪れたものだ。

それでは私の父親はだれなのか? 母親は? おそらくデッサンを勉強したことのある画学生ならだれでも、美術教室の担任はセザンヌだったに違いない。パリで、印象派美術館の近くを散歩していたときに、偶然にセザンヌの展覧会の前日だかで、観客もいなければ警備員もいないという恵まれた事件が起きたことがある。私は、彼の代表作のほとんどすべてが集まっていたその会場で、小一時間もの間、たった一人だけで豪華な空間を愉しんだものだ。やがてワインを一杯ひっかけてきたらしい警備員が帰ってきたが、私に対して一言も注意を促すわけでもなく、まったく空気が対流したほどにも何も起こらなかった。こうしたことが時々、起きるのがパリの不思議なところである。

さて、私が良く記憶しているのは、私が属していた「空想美術館」の館長がレオナルド・ダ・ヴィンチだったことだが、それは画家というよりも彫刻、科学、建築、哲学、音楽とあらゆる自然現象に好奇心を抱いたそのことに関して、敬意を抱かずにはいられなかったからだ。私が科学や建築、医学といった分野を勉強するようになるのも、そうした影響が否定できないと思う。

それからクリムトやエゴン・シーレも忘れられない。長い間、私はクリムトが好きだったし、エゴン・シーレは今でも深い関心を持っている。彼らについては、折に触れて書くこともあるだろう。ついでに触れるなら、マチスやルオー、ドランといった師匠にあたるギュスターブ・モローの虜になったこともある。あのモロー美術館で、まる一日過ごし、すべてのデッサンを1枚1枚、丹念に見たこともある。

大学生の時に、当時の美術家で関心を抱いていたのは、まだ健在だが、宇佐見圭治である。2回ばかり本人とすれ違い、どきどきと胸を高鳴らせながら、言葉を交わしたこともある。一方的な片思いに近い。あのシャープな感性と色遣い、最初は形象と関連性から入り、晩年になるに従って、どんどんと輪廻転生、曼荼羅の世界へと深入りして行く様子には1人の美術家としての在り方を考えさせられるものがある。

もちろんピカソやデュシャンからも影響を受けていることを否定しない。でも、彼らは天才というレッテルを貼るのに十分な活躍をしているし、私とは遠い存在の有名人である。私が現在でも、最も尊敬している美術家は、建築科のアントニオ・ガウディのような気がする。サグラダ・ファミリアは2回ばかり訪れたことがあり、最初に訪れた27才の時には、4~5人の石工がコンコンとノミをふるい、完成するのに100年はかかると聞き、その大陸的な時間のかけ方に圧倒され、日本の木造建築と対比させて考えたものだ。今では、クレーンなどの機械類が導入され、人間の数も大幅に増えて、そびえる塔の数も何倍かに増えている。

数年前に日本でガウディ展があって、その時にさまざまな意匠や力学の応用、重力のかけかたなど、はるかに遠い未来を計算しているようなところがあって、その偉大さに改めて驚かされたものだ。特に驚嘆させられたのは、あのサグラダ・ファミリアの模型を逆さに吊るし、重りをつけて重力の計算をしていたことだった。あくまで自然の形が重要なのだった。グエル公園のアールヌーボー風の外観ばかりが気になっていた私としては、ガウディの美術家としての巨大さに、圧倒されたのであった。

さて、ここまで話をしても私の父親と母親はだれだか分からない。おそらく私は私生児なのに違いない。ありとあらゆる美術と名のつく概念からの私生児なのだ。

このような話をしだしたら、もう止まることがない。しかし、私が大学生の頃に全盛となったのは、コンセプチュアル・アートという観念芸術で、手仕事を全否定するようなもので、いったんはかぶれても、あまりにも面白くないものだった。どんどん現代美術は否定が否定を産み、さらに頭でっかちで尊大となり、その上でやってきたのがアニメやディズニーランド的な空虚な巨大さと商業主義だったとは、ちょっとやりきれないものがある。現代という時代から希望が感じられず、自殺者が毎年3万人を超すような世の中で、少しでも周囲に明るさを投げかけられるもの、あるいは希望を共有できるようなものを、私は表現していきたいと願っている。そのためなら自分を消すような表現でも構わないのではないか、と思っている。

これほど絶望的な世の中にあって、人に心に何かを投げかけられる表現とは? 私は、地道に自分の路を一歩づつ進める以外にないような気がしている。