アルベール・カミュのお墓

柴野利彦

「カミュの本を読んだことある?」とカリカチュア漫画家のベルナール・シュネーズが私に聞いた。何のことかと思いながら、「もちろん、4~5冊は」と答えると、「この村にカミュのお墓があるんだけど、行ってみるかい?」と彼が私に訊ねた。私は考える間もなく、「行きたい」と反射的に答えた。正確には、遠くにいた彼の伝言を奥さんのアレッタが近づいてきて、私に仏語から英語にして教えてくれたのだが、一緒にサントヴィクトワール山の周囲をドライブしながら、その麓の村の一つであるLourmarin(ルールマラン)に寄った時のできごとであった。Lourmarinの発音は、rが掠れたハヒフヘホの音になるので、ルーフマヒンのように聞こえる。

10代の終わりから20代の頭にかけて、私はカミュの手帳Ⅰ「太陽の賛歌」、手帳Ⅱ「反抗の論理」と題された2冊の本を、バイブルにも等しいほどに大切にしていたことを思い出した。その他の「異邦人」や「ペスト」「シジフォスの神話」「カリギュラ」「正義の人々」「誤解」といった本よりも、とりわけその2冊は、何回も繰り返し読んだものだ。箴言集の趣のあるそれらは、若い私にとってはこれから進むべき羅針盤ともなる本だった。

ついでにカミュの師匠格にあたるジャン・グルニエの「孤島」も大好きな本で、未だに頭の中に刻まれている言葉が幾つかある。「空が空の中に飲み込まれるのを見た、それが虚無についての最初の印象だった」といった記述で、私は芝生の上に寝転がり、空を見ていて雲が天空に消えていくのを見た時、それと同じことを体験した。

またグルニエの中には、壁の向こうから姿は見えない花の良い香りが漂ってくる記述があり、それは理由は分からないのだが、やはり未だに印象深く残っていて、どこかから梅の香りが鼻腔を通過したりする瞬間にそれをフラッシュバックのように思い出したりする。とても暗示的で、人生を豊かにしてくれる言葉なのだったと思われる。

ジャン・グルニエとカミュがLourmarin(ルールマラン)でも会っていたことを知ったのは、残念ながら日本に帰ってきた後だったが、改めて写真を見て振り返ると、あの美しい村がそういう雰囲気を既に奏でていたことに気がつく。ルールマランの山塊が生まれ故郷のアルジェリアのそれに似ているというのが、カミュがこの場所を気に入った理由らしい。

村の中心部分の高台から下って数十分歩くと、村はずれにあるカミュのお墓にたどり着く。それは古い墓地で、カミュのお墓は周囲の囲いも被いも既に無く、虚飾の一切を排した土くれが剥き出しとなり、ローズマリーが繁茂した上に一枚の墓碑銘が置いてあるだけの、ギョッとするほど質素なものだった。(http://toshihikoshibano.com/?p=891)

モンパルナス墓地のサルトルの墓もそれほど豪華なものではなかったけど、それと比べてもあまりにも惨めな感じがするほど素っ気ないものであった。反面、いわゆるノーベル文学賞作家としての名誉も誇りも気にしていなかったカミュらしい気もするものだ。それにしても未だにサルトルとカミュの論争が記憶に残っている。もちろん現在形として体験したものではなく、後年に読んだものだが、口下手なカミュが負けた感じで、それには判官贔屓のような気持ちがどうしても働いてしまう。

ルールマリンには、今でも娘さんが住んでいるというので、おそらく崩壊のままに任せたお墓というのは、確信犯としての質素さなのだと思う。“死”に余計な名誉を与えてはならないというカミュの強固な意志を反映しているような気もしてくる。しかし47歳での自動車事故死というのは、あまりにも若すぎる死に思えてならない。

サントヴィクトワール山の周囲の村の一つには、またピカソのお墓がある。それはヴォーヴナルグ城という周囲を森に囲まれた高台にそびえるお城の中にあり、カミュとはえらい違いである。お城の中で展覧会が開催されているというので、わざわざ車を飛ばして足を延ばしたのだが、家族の気まぐれで開けたり閉じたりしているという話で、中に入ることはできなかった。下から見上げるだけのお城は随分と恨めしい感じがしたものだ。

ピカソが、自分の骨を埋める場所に母国のスペインではなく、南仏のサントヴィクトワール山が見える場所を選んだというのも、ピカソとセザンヌの因縁の深さを感じさせる。キュビズムの先駆者としてのセザンヌを讃えたピカソだが、彼はセザンヌの苦悩を理解していたのではないだろうか、と思えてくる。

セザンヌを訪ねる旅が、カミュとグルニエと出会う旅になるとは思わなかった。グルニエに関しては南仏のどこかの場所だろうとしか思っていなかったので、本の中身と同じような雰囲気の村にいたことが分かって幸せな気がしてきた。南仏の風、空気、糸杉、水、食べ物、人、風景、すべてに感謝したい。