CHRONO CUBISMについて
「時間のキュビズム」について
柴野利彦
写真を撮ることが私の生活の一部となるにつれて、いつのまにか普通に撮ったのでは満足することができなくなってきた。5年くらい前まではポジフィルム主体に撮っていたので、1枚、1枚、考えながら撮ることが当たり前であり、無駄に撮るなんてことはあり得ないことだった。
36枚撮りが1本、800円近く、現像も同様の料金がかかるので、ミスすればあっという間に1600円のお金をドブに捨てるのと同じことになる。それだけに光の回り方に気を遣い、ポートレートであれば表情に気を遣い、相手の気をほぐしながら柔らかい表情になったところで撮影をし、背後に無駄なものが写りこんでいないか、露光とシャッタースピードの関係は大丈夫か、といったことを当然のこととして計算しながら行っていたのである。
しかも少しギャランティの高い撮影になると、1枚200円のポラロイドを一体何枚くらい撮って捨てていたことか、これは個人で請け負っているカメラマンなら、多くを語らなくても同じ思いをしたに違いない。
ところがそうした経済的なことを考慮しなくてもよくなったのがデジカメの登場である。最初の頃こそ、画素数も少なく、よくこんなひどいカメラを売るものだと思ったものだが、年々その画質は良くなり、今では高いデジカメの解像度はフィルムを凌ぐと言われている。あっという間の進歩である。
それともう一つ嬉しいのは、フィルムの代わりのコンパクトフラッシュやスマートメディアといった記録媒体が飛躍的に進歩し、数センチ四方のメモリーカードで撮れる枚数が何千枚といった数なのだから、もう驚きを通り越して、唖然としてしまう。しかも記憶容量は、メガバイトからギガバイトと膨らみ、価格もどんどん安くなり、コンピュータ内に取り込んでしまえば、また同じメモリーカードが使用できるというのだから、まさに鬼に金棒、雨でも鉄砲玉でも降って来やがれといった心境となる。
これでやっと本題に到達できそうだ。
デジカメの最大のメリットは、その場で撮ったものを再確認できることと、枚数を気にしないで幾らでも撮れることである。私は4ギガバイトを4枚、1ギガバイトを4枚、常に携えているけど、何泊もする撮影でない限り、4ギガが1枚あればほとんどの場合は事足りる。
そうなるとこれまでひたすら貧乏たらしく節約しながら考えて撮っていた撮影も、やたらとシャッターを押すようになる。人間であれば少しでも良い表情を抑えたいと思う気持ちが働くので、枚数を1枚でも多く撮ろうとする。
前口上が長くて申し訳ないのだが、やっと「CHRONO CUBISM 時間のキュビズム」のテーマに至り着く。つまり当たり前に撮っても面白くない私としては、どうやったら少しでも私自身の興味を引く写真が撮れるのだろうか、と日夜考えているのである? ちょっと大げさかも!
そこで考え出したのが、多重撮影やスロー撮影なのだが、これは写真が誕生した当時から行われていたことなので少しも新しいことではない。しかし、デジカメのその場で確認できることと何枚でも撮影できるという利点を生かすと、幾らでも挑戦できるのが嬉しいのである。
実は、人物のどこか一点に焦点を合わせ、周囲を流したりぼかしたりして撮るといった作業は、思ったほど簡単ではない。いや、簡単にできることではあるのだが、効率が物凄く悪いのである。100枚撮っても気に入るのは、せいぜい数枚というのが現実である。かつてフィルムでも試したことがあったのだが、デジカメほど数で挑戦できないので、そう多い枚数を撮ることはできなかった。しかも現像があがってきてからやっと、結果が確認できることであり、明かりの調整を思うようにできない恨みが残った。
「CHRONO CUBISM 時間のキュビズム」というのは、写真がこれまで1秒の何百分の1の瞬間を切り取ることばかりに精力を注いできたのに反して、もう少し長い時間を1枚の写真の中に写しこんでやろうという狙いが含まれている。顔であれば片面からだけでなく、もう一方の面も同一平面上に写しこむことができる。あるいは、動きまでも写真の中に写しこめるので、突然、写真が活き活きと呼吸を始めるのである。やっと私が写真の中に探し求めていたテーマが見つかったといえる。
こんなことを始めて4年くらいになる。シュネーズ一家は、30年以上のつきあいになる友達だが、顔の凸凹が日本人よりはっきりしているので、「CHRONO CUBISM 時間のキュビズム」の素材とするには、ちょうど良かった。この3年の間に彼らが2回、日本にやってきて、我々夫婦も1回フランスに行っているので、都合3回にわたって撮ることができた。今回はその成果の一部を披露することになったのだが、面白がって観てくれる人がいることを祈っている。